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一九八〇年代初頭から始まった旧文部省のいわゆる「ゆとり教育」路線は、子供たちの学力低下を招き、
科学技術立国日本の将来を憂える声は、各界から高まるばかりだ。
公立私立の小中学生を対象とした学習塾で指導に携わって二〇年余。
確かに子供たちの学力低下は目を覆うばかりである。
公立中で三の評価がついている生徒すら小学生の小数分数がまるでわかっていない。
「分数ができない大学生」が話題になったときも、やっと表面化してきたな、というのが率直な感想であった。
現在の子供たちに対する教育の内容は、次の世代の未来を形作る。
さらにこの世代の子供たちが親になって、そのまた次の世代を育ててゆく。一世代三〇年。
「教育は国家百年の計」と言われる所以である。
「勉強などしなくていい。できなくていい。ゆっくり楽しい人生を送れば幸せなのだ」
こうした甘い言葉で子供たちを導いたらどうなるか。有為な人材がいなくなる。
国力は落ち、貧窮し、やがて他国との競争に負け、ついには他国の援助なしではやっていけなくなる。
「ゆとり教育」は国家を破壊する。断じてこれは阻止しなくてはならない。
では、「ゆとり教育」を画策する以前の状態にこれを戻すだけで、果たして日本の教育は立ち直るであろうか。
おそらく無理であろう。問題の根はもっと深いところに存するからだ。
「人生の目的は、人生の目的を見つけることにあると思うんです。」中一男子の言葉である。
卒業生から届いた年賀状に「英語は難しかったけど、先生との雑談はチョーおもしろかった」とあった。
授業のあいまの人生談義に対する感想である。個人差こそあれ、
彼らは心の奥深くで「何のために勉強するのか」「否応なく送り出される大人の社会は、
努力して生きていくに足るものなのか」を自問している。
一方、成績の良いことに引け目を感ずる屈折した心を持っている子も少なくない。
ガリ勉と言われることを恐れ、勉強などしていないふうを装うことに神経をすり減らしている。
授業がわからない生徒がクラスの半分以上と言われるようになって久しいが、わからない組に入ってしまった生徒は、
勉強の大切さを教わらないまま「成績が少しくらい悪くても部活で頑張れば推薦で(高校に)入れてもらえる」
という教師の言葉を頼りに、中学生活の大部分を「身体を鍛える」ことのみに捧げることになる。
教育改革というと教科書を変え、システムをいじるといった形のほうに目が向きがちだが、今最も必要なのは、
教師であれ親であれ育てる側の意識改革である。
まず、子供たちの真摯な問いかけを真正面から受け止めることである。
彼らは「人生とは何ぞや」に即答してほしいのではない。親や教師を通して人生の希望や理想を見出したいのだ。
しかし大方は、訊いても無駄と、その言葉を飲み込み、無気力と怠惰の生活に流れていく。
いじめ、不登校、授業妨害など一連の行動も、助けを求める魂の叫びのようにも思える。
次に必要なことは、勉強することは良いことであり努力することは素晴らしいことだという価値観を心の中に根付かせ、
ことあるごとに子供たちに教えることだ。スマイルズの「西国立志編(自助論)」、福沢諭吉の「学問ノススメ」に啓発され、
明治の青年達が日夜刻苦勉励して、近代日本を作り上げた。このような風潮を今一度取り戻さなくてはならない。
最も重要なことは、努力の結果に対して正当に評価し、成功者を尊敬する精神風土をつくりあげることだ。
勉強ができることに引け目を感じさせてしまう雰囲気は、当人にとって不幸であるばかりでなく国家の損失である。
混迷する教育界を立ち直らせるために競争原理を導入すべきだとして、
グレード別教科書、習熟度別クラス編成、学校選択制度などが提案されている。
しかし、横並びの集団教育に慣れ、「出る杭は打たれる」式の極めて日本的な処世術にたけてしまった大人の側に、
根本からの精神の変革なくして、それらを有効に機能させることはできないであろう。
エリートを妬むのでなく、その出現を期待し祝福する心こそ、今の日本に必要だと考える。
精神の変革という、目には見えず、結果もすぐには現われそうもないことの重要性を主張した。
しかし、システムを変えれば良くなるというのは幻想に過ぎない。
一人一人が、自分の子供に、身近な青少年にどんな言葉をかけ、どんな態度で接するか。
全てはそこから始まる。たった一人の言葉が子供を生かしも殺しもする。
「本当は君はよい子なんだよ」という園長先生の言葉に励まされて、
道を過つことなく歩いて来られたという某女優の話はつとに有名である。
子供たちの教育と日本の未来に本気で責任を感じる人が一人でも増えることを望むばかりである。
[TEXT:井上 敬子(ドルフィン英数教室)]
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